渋沢栄一とSDGs (2021年2月版)
2024年刷新される新紙幣の顔、NHK大河ドラマの主人公と、改めて渋沢栄一が脚光を浴びている。「日本資本主義の父」と呼ばれ、数多くの功績を残し、幾度も紙幣候補となりながら不採用となっていたが、偽造防止技術向上により今回、採用の運びとなった。
渋沢は時代が幕末から明治へ、近世から近代へと大きく変わる激動の時代に、学歴はなかったが「論語」を学び、漢学の手ほどきを受け育った。やがて商才を見込まれ、徳川慶喜に仕えることとなり、27歳で弟昭武に随行しパリ万博や、欧州の実情を見る機会に恵まれた。そこで産業という被支配階級による実業の興隆を目の当たりにし、尊王攘夷から開国主義に思考を改めた。常人が視察してもキャッチアップまで思いもつかないが、渋沢にはその才能・才覚があった。
彼が関わった企業は約500、教育・社会関連事業は約600といわれており、東京証券取引所の前身の発起にも名を連ねる。代表されるのが、1873年設立の第一国立銀行(現みずほ銀行)や、82年の大阪紡績会社(現東洋紡)である。第一国立銀行は日本銀行より以前に、金融も銀行の仕組みもさほど確立されない時期に民間の手で設立した。彼は当時の財閥経済のみでなく、広く企業に資金提供を行い、金融を中心に産業を興し、国を豊かにすることを画策した。また、歴史における産業革命は英国も日本も綿紡績業から始まっており、大阪紡績は、大規模な紡績で日本の産業革命期の先駆けとなった。彼の活躍が日本の産業のスタートであり、スピードを早めたといっても過言ではない。
渋沢は財閥の形成や、自分の名前をつけた会社を設立することを固辞し、企業設立時のアドバイスや出資、経営者の相談役に徹し、実際の経営は信頼できる人間に任せることが多かった。彼は、かつて日本になかった近代化に必要な鉄道、ガス、電力など、国を豊かにするインフラに注目、金を儲けることで経済をまわし、国づくりに尽力した。同時に、社会貢献事業にも注力し、養育院、中央慈善協会、博愛社(現日本赤十字社)や一橋大、日本女子大、早稲田大などの設立にも携わっている。江戸時代の封建制度に育ったが、渡英後、自国の近代産業を発達させることこそが最大の急務で、商工業の発展には官尊民卑を打破し、自主独立を図ることが必要と考えた。そこで、人材が経営者や労働力として日本全体に発展をもたらすとの思いから教育分野にも注力したとみられている。
経営思想「道徳経済合一」は、著書『論語と算盤』の中で、経済が日本を良くすることに繋がると考えており、企業も社会事業も公益を追求する道徳と、利益を求める経済活動を両立させるべきという理念が説かれている。
昨今、『論語と算盤』は、現代のSDGs(持続可能な開発目標)の概念に共通するとの声が聞かれる。彼は「正しい道理の富でなければその富は完全に永続することはできない。従って、論語と算盤という懸け離れたものを一致させることが今日のきわめて大切な務めである。」と述べている。また、道徳のための道徳教育のような空理空論では組織は持続できるものでもないとも述べ、論語と算盤という懸け離れたものを一致させることがきわめて大切な務めであると公言していた。
玄孫の渋澤健氏は、日本の近代化社会の周期性を30年周期と唱えている。1870~1900年(維新:破壊)、1900~30年(日露戦争等:西欧社会に並ぶ繁栄)、1930~60年(戦時→戦後:破壊)、1960~90年(高度成長、ジャパンアズ№1:繁栄)と、30年ごとに繁栄と破壊が繰り返されているという。事実、新型コロナウィルス感染や日経平均の30年ぶり高値更新は新しい社会の始まりを感じさせる。少子高齢化が進む日本における課題は、グローバル社会への進出と共栄のあり方であろう。
渋沢栄一の経営思想は100年経った今日でも、世界レベルの事業の担い手づくりや、企業のイノベーションを押し上げる原点として、世界目標のSDGsの考え方を理解する上でもヒントになり得るのではないか。
(戸谷 慈伸)