動き始めた労働市場 (2024年10月版)
米FRBの予防的な大幅利下げによって、経済のソフトランディング(軟着陸)を期待して、ダウ工業株30種平均は最高値を更新した。一方、日本では石破茂首相就任とともに衆院解散総選挙の運びとなり、政策運営が明確となるまで短期的変動が続きそうだ。
日本の総人口が2008 年を境に減少に転じるなかで、労働人口は雇用の延長や女性の労働参加により維持されてきたのだが、今後はこちらも縮小方向の見通しである。コロナ禍以後の経済活動が回復する中、感染拡大前よりも人手不足感が全産業で強まりつつある。日本企業は、今後想定される労働需給のタイト化と物価や賃金の上昇圧力に対して、省力化投資やDX(デジタルトランスフォーメーション)投資で、生産性の向上と持続的な成長を目指すのが現在のスタンスといえる。
長年にわたり日本の労働市場は、終身雇用形態によって転職などの労働移動が制限され、人的資本の効率的な再配分が生じにくい状態が続いた。1990 年代以後には、グローバルな競争環境や経済構造の変化とともに、必要な人材の成長分野への移動が求められたが、労働市場に存在した障壁が問題となった。当時は、パートと正社員の間や、転職を通じキャリア形成する正社員と終身雇用・年功序列型の賃金体系の正社員の間で、賃金決定メカニズムが分かれており、賃金上昇圧力の高まりが全体に波及しにくい環境であった。
2010 年代に入ると雇用情勢は大きく反転し、人手不足問題とともに正社員の賃金に対する議論が再浮上した。しかし、企業は正社員の賃上げよりも女性や高齢者、そして外国人の非正規雇用(パート)の受け入れ増加で対応することで、立ち消えとなった。
2020年代に入り、労働力確保問題は再度クローズアップされ、今回は政府の要請とともに、労働市場での企業の賃上げ行動が台頭した。現状の労働需給は、高度人材や若者を中心として不足感が徐々に強まっており、今や人材確保に優位性を持つ大企業にも及びつつある。転職者数も増加傾向を辿っており、本格的な人的資源の移動もいよいよ始まりつつあるようだ。
労働需給の引き締まり、いわゆる人手不足は賃金への上昇圧力として作用しており、昨年度の春季労使交渉では組合員の多いリーダー企業は5%前後の賃金改定となり、多くの企業も追随する形となった。パート賃金も、最低賃金引き上げとともに上昇し、正社員とパート間の賃金水準の差が小さい業種や企業では、正社員に対しても同様に賃金上昇の圧力が見られるようになった。特に、中小企業や飲食などのサービス業は、元々の正社員とパートの賃金水準の差が小さいため、最低賃金の引き上げによって、正社員の賃上げを迫られる動きが見られている。パート賃金が上昇しても正社員の賃金が上昇しなかった従来からの二重構造に対して、今回は上昇圧力が作用している。
政府は、最低賃金を2030 年代半ばまでに1,500 円(全国加重平均)に引き上げる方針を示しており、人材確保を目的に賃金を引き上げる動きは、今後も続くと推測される。転職市場が拡大することは、転職者確保のための募集賃金上昇と、つなぎ留めを目的とする既存社員の賃金上昇の両面につながりやすい。事実、近年の転職市場における募集賃金は、高度人材を中心に上昇傾向を続けており、それを目的とする転職も増加している。
厚生労働省の調べでは、昨年、人手不足が理由での倒産は、調査開始以降最多となっており、後継者難や人件費高騰、求人難、従業員退職など、特に人件費高騰による倒産件数は前年から大幅に増加し始めている。同省が発表した、7月の毎月勤労統計調査(共通事業所ベース)では、実質賃金は+0.4%と2ヶ月連続で増加した。業績の拡大で、ボーナスが大幅に増加したことが上振れ理由とされるが、業績動向を踏まえれば冬のボーナス増も期待される。また、パートタイマーの時間あたり給与も、+3.6%と上昇は続いている。
人手不足を理由とした企業の賃金引き上げは、前向きなものに変化し始めている。今後も経済情勢や労働政策など、多岐にわたる要因が影響を及ぼすとは考えられるものの、待ち受ける労働需給のタイト化を通じ、賃金を押し上げる動きが続くとともに、企業側も積極的に賃上げを急ぐ可能性があるだろう。
今後予想される労働市場と賃金の変化によって、人的資源の配分効率化が進み、生産性向上を通じた経済効果に注目しておきたい。
(戸谷 慈伸)