好循環への期待 (2024年7月版)
米国株の高値追いに対して、直近の日本株は円安と米株高に対する感度が鈍い。企業の慎重な業績見通しから、株価の割安感が薄れたことや金融政策の先行きの不確実性などが、影響しているように思われる。
厚生労働省発表の4月毎月勤労統計調査は、基本給にあたる所定内給与が平均で前年同月比2.3%増と、29年6カ月ぶりの伸びを示した。しかし実質賃金は、令和2年の統計開始以降、最長の25カ月連続マイナスと物価上昇に追いついていない。
岸田政権発足当初より「賃金と物価の好循環」と提唱されて久しいが、6月給与分から開始された定額減税とともに、今夏にも実質賃金がプラスに転じることが予想されている。財務省発表の1-3月期法人企業統計の全産業経常利益(金融・保険を除く)は、前年同期比15.1%増と同時期の最高を記録しており、企業にとって今後の賃上げ余力の温存も期待できる。政府の電気・ガス代の補助事業が終了し、再度、物価上昇圧力が強まる恐れも取りざたされる中、実質賃金の増加が今後の景気浮揚を占うカギを握る。
政府がめざす「賃金と物価の好循環」とは、物価の伸びを上回る賃上げによって実質賃金と消費の増加を期待するもので、企業もサービス価格や製品価格に人件費を転嫁しやすい環境が整い、持続的な物価上昇サイクル、いわゆる好循環が続くことを指す。実質賃金(時間あたりの雇用者報酬)は、労働生産性に労働分配率を乗じたものなので、生産性が変わらないまま実質賃金を引き上げることでは、労働分配率の引き上げを意味する。分配率は適正水準に保たれることが重要で、給与が高いうえに分配率も高ければ雇用者のやる気は上がるものの、経営者側にとって人件費のみの増加は経営の足かせとなりかねず、設備投資等に十分な資金を投じることができなくなる恐れとなる。仮に、賃金と物価が同じ上昇率であれば実質賃金の上昇率も変わらないため、個人の生活水準の改善もさほど変わらないこととなる。実質賃金がどの程度上昇し、可処分所得がどの程度増加するのかが、この提唱における重要なポイントである。繰り返しとなるが、余力によって一時的な賃金上昇率を高めることはできても、労働分配率が上昇することは、企業収益への負荷となるため、企業は再び雇用や賃金の抑制に動き、一度高まった実質賃金上昇率も再び低下する懸念がある。すなわち、労働生産性の上昇率も同時に高めることが、持続的かつ安定的に実質賃金上昇率を高めることにつながる。
持続的に高めるためにも、政府の少子化対策、労働市場改革、大都市集中の是正、外国人労働力の活用、インバウンド戦略などの各政策がスピード感をもって取組まれることが重要となる。その結果、先行きの成長率見通しが高まれば、企業の設備投資も活発化し、労働生産性を高めることにつながるだろう。また、企業が生産効率の向上や技術革新に努めるとともに、個人も学び直し(リスキリング)による技能向上や新しい知見を吸収する努力が求められる。政府、企業、個人のそれぞれが地道な努力を重ねることが、潜在成長率や労働生産性などの経済力向上につながり、その恩恵が企業や家計に拡がる。その中でも、実質賃金の動きには、今後の景気動向を計るうえでも注目したい。
ただ、前号でも述べた人口減少や出生率低下の流れが変わらぬ中では、右肩上がりの賃金増加への期待は避けておきたい。現況では、名目賃金は徐々に増加すると考えられるが、実質賃金も比例しなければ、消費の拡大にはつながらない。経団連公表の春闘1次集計の大手企業賃上げ率が5.58%の水準に対して、中小企業の正社員の賃上げ率は加重平均3.62%で、5.0%以上は全体の24.7%(日本商工会議所調査、4月時点)にとどまっている。また総務省家計調査では、無職世帯比率が年々増加しており、二人以上世帯に占める無職世帯の割合は直近では3分の1を超える。大部分が年金受給者に該当し、年金受給額はマクロ経済スライドにより、実質の受給額は減る仕組みであるため、無職世帯にとっては、賃金と物価の好循環が進むことで逆に収支環境が悪化し、消費が抑制される可能性がある。
昨年からの物価と名目賃金の顕著な上昇は、円安と輸入物価の上昇が背景にあると考えられる。これらをキッカケとして実質賃金の上昇や生活改善への期待を抱くわけだが、期待しすぎないことが肝要だ。他力本願の姿勢でなく、政府、企業、個人の3者それぞれが、日々の地道な努力を重ねることで道は拓かれると思われる。
(戸谷 慈伸)